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2008年03月22日 (土) | Edit |
唐から帰国後の弘法大師

四国別格霊場 第八番十夜ヶ橋(永徳寺)の野宿する大師像
四国別格霊場 第八番十夜ヶ橋(永徳寺)の野宿する大師像

大同元年(806)入唐より2年後帰国するが
20年の予定の留学年限を繰り上げて帰国したため
上京は許されず、大宰府に留められる。
大同4年(809)嵯峨天皇の時、上京が許され高尾山寺に入る。
この年、最澄が経論の貸し出しを願い、その後たびたび
経典の貸し出しが続く。
弘仁元年(810)薬子の変が起こり、空海は鎮護国家のための
大祈祷をする。これにより空海の名は天下に広まり
多くの人々が帰依した。
弘仁4年(813)最澄の「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」の
借用願いを断り、しかも最澄の弟子である泰範を
自分の弟子にしてしまう。ここで二人の関係は断たれる。
その後、四国を巡遊。その遺跡が四国八十八カ所霊場となっている。
また、全国を行脚して済世利民(さいせいりみん)の行に徹する。
弘仁7年(816)嵯峨天皇より高野山の地を賜り
七里四方のこの山を真言密教護法の根本道場とし
門弟育成の修行場とする。また、この時高野山を
自身の入定の地と定めたともいわれる。
弘仁12年(821)故郷の人々の要請と、天皇の命により
今まで3年がかりでもできなかった讃岐国満濃池の
改修工事を、わずか3ヶ月あまりで完成させ
偉大な「マルチ人間空海」は土木技術の才も発揮する。

四国別格霊場 第十七番神野寺に建つ大師像
四国別格霊場 第十七番神野寺に建つ大師像
日本最大・最古のため池、満濃池を見つめるように建つ

弘仁14年(823)嵯峨天皇から東寺を賜る。
この寺を密教の根本道場と定め、真言宗以外の宗派の
立ち入りを禁じる。そして寺号を教王護国寺と名づける。
天長5年(828)わが国最初の民間学校綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)
を東寺に開く。当時は、高い身分の子弟が学ぶ学校しかなく
空海は、大乗仏教の「人々はみな仏子である」という精神から
教育の機会均等を実現した。
天長7年(830)「秘密曼荼羅十住新論」(10巻)
「秘蔵宝鑰」(3巻)著し、行きながらにして仏となる
「即身成仏」の理論を完成させる。
承和2年(835)3月21日明け方、弟子たちを集め
遺訓を残して入定する。(空海62歳)
その86年後(921年)弟子たちの熱心な奏請により
醍醐天皇から「弘法大師」の号を賜る。

第七番札所 光明山 十楽寺 大師堂

そして今、「同行二人」の白衣姿のお遍路さんたちが
四国霊場の寺々を巡礼している。
私たちは「お大師さん」とともに空海(弘法大師)の
歩いた道を歩いている。
お遍路さんの数は年々増え続けている。
弘法大師は行き続けているのである。

南無大師遍照金剛

合掌

弘法大師思想論弘法大師思想論
(2002/10)
加藤 精一

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