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2008年03月22日 (土) | Edit |
空海(弘法大師)と高野山

総本山 高野山金剛峯寺
(総本山 高野山金剛峯寺)

高野山は標高850mの紀伊山地に開いた
東西5.5km、南北2.2kmの盆地上の地で
周囲は、転軸山・楊柳山・弁天岳・摩尼山など
八つの峰々に囲まれている。その有様はあたかも
巨大な八枚の蓮の花弁のようだ。

雪のちらつく高野山金剛峯寺
(雪のちらつく高野山金剛峯寺)

弘仁7年(816)に、真言密教修禅寺院の金剛峯寺
建立を嵯峨天皇に願い出て許される。
金剛峯寺は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祗経」
(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)
から名付けられたもので、高野山の総称である。
(現在は総本山である金剛峯寺をさす)
空海は、真言密教思想を具現化する独特の伽藍
建立をめざしたという。が、その造営は空海一代では
終わらず、空海の弟子の二世真然(しんぜん)の代に
もちこされ、金剛峯寺の伽藍が整備されたのは、
空海入定から54年後のことであった。
また、約1200年に及ぶ高野山の歴史を見ると
落雷の直撃を受け諸堂がほとんど灰燼に帰すなど、
伽藍焼失と再建を繰り返し荒廃を極めたこともある。
しかし、そのたびごとに、高野山に対する人々の
厚い信仰心や、朝廷・公家や武士などの外護者により
不死鳥のようによみがえってきた。
こうした中で、高野山は宗派を越えた「幅広い仏教信仰霊場の山」
という性格を強めていった。
その信仰の根底には「高野山は弘法大師空海入定の霊山である」
とする、高野山浄土信仰観が流れている。
(※入定とは、生死を越えた境地に入ること)
中世になると、高野山は戦国武将なみの武力を持ち
信長や秀吉から討伐の兵を差し向けられるというようなこともあった。
近代に入り、明治の廃仏毀釈の嵐をくぐりぬけ
教団の近代化につとめた高野山は、東寺とともに
古義真言宗の総本山となった。
昭和21年(1946)には高野山真言宗を設立し
現在に至っている。
現在の高野山は壇上伽藍と呼ばれる根本大塔・金堂
不動堂・御影堂などがある地域、金剛峯寺・明王院
などからなる本中院谷、さらに千手院谷、往生院谷
そして、弘法大師の御廟がある奥の院に分かれている。

高野山 弘法大師空海の聖山 (別冊太陽)高野山 弘法大師空海の聖山 (別冊太陽)
(2004/03/26)
井筒 信隆

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